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蒸気自動車

歴史上最初に出現した自動車は蒸気自動車である。フランスのエ兵大将N.J.キュノーが1770年に作った車がそれだ。もっとも、歴史家のなかには、1600年にオランダの数学者シモン ステファンが作った帆走車をもって自動車の起源とする人も多い。帆で風をうけて自走する車両だ。だがこれは、「自動車」とよぶにたるものだとはいいがたい。風は吹く日もあればやむ日もあり、季節によってその方向もちがうからである。すなわち、交通機関になりうる可能性はゼロにひとしい、しろものなのだ。

そのほか、ぜんまい仕掛けの車や、ポンプで空気を圧縮しておいてその反動で走りだす車などもあった。だが、「自動車」といったばあいはやはり、「機械力による自走車」だというのことをさす、とするのが妥当であろう。そして、キュノー以後、1880年前後に電気自動車が、ついで1885年にガソリン自動車があらわれるまで、自動車といえば蒸気自動車のことであった。
1770年史上初の自動車 1770年にフランスの工兵大尉N.J.キューのが作った「史上初の自動車」。実物はパリのフランス国立工芸博物館に陳列されている。
キュノーからボレーまで

キュノーの蒸気自動車は、がんらい、大砲の牽引車として開発された。つまり、史上初の自動車は軍用車両であったのだ。しかし、じつをいえば、これまた実用性という面では帆走車同様、失格だった。スピードは、時速3km(人間の歩行速度よりもおそい)にすぎず、15分もつづけて運転するとボイラーの蒸気をつかいはたしてしまい、30分も休んでその回復を待った、と記録されている。さらに、重いボイラーを3輪式のフレームにぶらさげていたため、きわめて安定が悪かった(取勤方式は前輪駆動)
事実キュノーは、この車をパリ市内で試運転していたさいに、運転をあやまって民家のれんが塀にぶつけてしまい、そのため監獄に投じられている。蒸気自動車が自動車として実用性をもつためには、なんとしても信頼性のある蒸気機関が必要であった。そしてそれは、イギリスのジエームズワットによって発明された。以後、蒸気自動車の研究・開発が、イギリスを中心におこなわれたことは、いうまでもない。まず、ワットの助手をしていたウィリアムマードックが1782年から10年間、多数の蒸気自動車の模型をつくり、多くの貴重な改良をくわえた。そして1801年になってはじめて実用的な蒸気自動車が出現した。リチャードトレヴィシックがつくった車がそれである。トレヴィシックの蒸気自動車は、「車上に数人を乗せて20分の1の魂Bを小鳥のようにかけあがった」と記録されている。そして,1826年には、ゴッズワージーガーニーが6輪、18人乗りという大型の蒸気バスをつくり、29年にロンドンからパースまでの長距離走破に成功、ついでチャールズ ダンス卿がこの3台を買いいれて、グロセスター〜チェルトナム間で路線輪送を開始するにいたった。1831年のこと、けだしこれが世界最初のバス営業である。1836年になるとロンドンでも蒸気バスの営業がはじめられた。ウォルターハンコックが、みずから製作した大型の22人乗りバスを就役させたのだ。このハンコックの蒸気バスは、30人を乗せて時速33.6kmをテストで記録している。
いっぽう、バスと並行して蒸気トラック(スチームワゴン)も普及していった。
しかしながら、このように蒸気自動車が実用に供せられるにしたがい、それは、猛然たる世論の非難にさらされることになる。耐えがたいばかりの騒音とおびただしい煙をまきちらしながら走行していたからである。くわえて、既存の馬車業者からの圧力も日ごとにましていった。そして1865年、悪名高い「赤旗法」が制定された。「蒸気自動車を運転するときは、1人が車の前方55m以上のところを歩行して、通行中の騎乗者や馬車の馭者に、昼は赤旗を、夜は赤いランタンをふって警告しなければならない」ときめられでいたからこの活がある。それだけではなくこの法律は,蒸気自動単の速度を「郊外6.4km/h、市街地3.2km/h」に制限(それまでは16km/hおよび8km/h)し、さらに「蒸気自動車の運転には、最少3人があたらなければならない」とさだめていた。これは「蒸気目動単は連転するな」というにひとしい内容であった。以後、1896年にこの法律が廃止されるまでの30年間、イギリスにおける蒸気自動車(とりもなおさず自動車)の発達は、ほぼ完全に息の根をとめられてしまう。いっぽうこの間、フランスではキュノー以来蒸気自動車の研究に長いブランクがあったにもかかわらず、1873年に、当時としてはもっともすぐれた蒸気自動車が出現していた、ルマンで鐘の鋳造師をしていたアメデボレーかそうがつくった車がそれである。12人乗りのボディを架装した大型車だったが、フロントサスペンションは独立式であり、ステアリングはアッカーマン方式であった。しかし、このような進歩的な自動車であったにもかかわらず、フランス官憲はこれにたいし、きわめて抑圧的な姿勢でのぞんだ。フランスにおいても、蒸気自動車をとりまく状況は、イギリスと似たリよったりであったのである。ボレーはなんとかこの蒸気自動車の運行許可をえたものの、それは,地域の限定をはじめ、さまざまな条件つきであった。そして、ボレーがルマンからパリヘのドライブを敢行したとたん、パリ警視総監から「パリ周辺での運行はいっさいまかりならぬ」というきついお達しをうけてしまう。それでもボレーは屈せず、1878年には、第2号車を完成した。機関部を前車軸の上(ボンネットフードの下)に置き、プロペラシャフト、ベベルギア、チェーンで後車軸を駆動するという近代的なレイアウトの車だ。だが後部には、やはりかさばって重いボイラーがでんとつみこまれていた。このため操向される前車軸にあまり重量がかからず、操向は不的確であった。そもそも、蒸気機関ずうたいそのものがボイラーという大きな図体のエネルギー発生装置をもっているため、自動車自体の重量がぐっとふる。舖装状態の悪い当時の路上で、しかも良質のゴムタイアがまだ開発されていなかったから、蒸気自動車はどうしてもスムーズに走れず、ときには車輪が地面にめりこんでしまうことさえあったのだ。蒸気機関が自動車用としてではなく、車輪がめりこむ心配のないレールの上を走る機関車用としてその後100年間も進歩し、かつつかいつづけられた理由もここにある。

1878年にアメデ ボレーが製作した蒸気自動車。近代的な「フロントエンジン、リヤドライブ方式」を採用している。 1881年にアメデ ボレーが製作した蒸気自動車。時速60kmのスピードが出せた。
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したライミントン社の製蒸気消防車 1906年にレオン セルボレが作った豪華仕様の蒸気ツーリングカー。
もっとも成功した蒸気自動車スタンレーの1904年モデル。 1930年のセンティネル社製、スチームワゴン
日本メール・オーダー発行 世界自動車大百科(1982)より
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