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1896年第1号車誕生
1号車 2気筒エンジン軽4輪車でティラー(舵)で操作し、最高速度は40Km/h
1902年初めてのレーシングカー
フォード・ミュージアムにて フォード・ミュージアムにて
1890年、ヘンリー・フォード(Henry Ford)は、農場での仕事をやめて、ふたたぴデトロイトにでた。彼が就職したのは、「エジソン電気会社」であった。これは、ガソリンエンジン製作のためには、電気の知識が必要であることをしっていたからである。そして3年後の1893年、彼は古いガス管を利用して、自分でエンジンをつくりあげた。彼がこの手製のエンジンのテストをおこなったのは、その年のクリスマスイブのことだった。それは、台所の流しにすえられた。点火は電線を電燈につないだ簡便な電気式、ガソリンは、妻のクララがパイプのなかにすこしずつながしこんだ。結果は大成功、このエンジンはみごとに作動したのであった。さらにそれから3年たって、ヘンリー・フォード(Henry Ford)は最初の車をつくりあげた。これは4輪のサイクルカーで、ごく単純な箱型の車であり、ブレーキなどという「高価なもの」もなければ「後退ギア」もついていなかった。そのためこの車は、仕事場から初出走したさいにドアをこわしてしまったみたいだ。だが、ともかくも、この車は走った。それだけではなく、友人に200ドルで売れさえした。このとき以来、ヘンリー・フォードの夢は、ゆっくりとながら、現実のものとなっていく。彼はついでもう1台の車をつくった。これはかなり完成度の高いもので、やがて彼の設計した車を製造するための会社が設立された。「キャディラック社」の創設者、ウィリアムH.マーフィーの援助になる「デトロイト自動車会社」がそれである。これによりヘンリー・フォード(Henry Ford)は「エジソン社」をやめ、自動車製造に専念することになった。ところが、彼は、すぐに「デトロイト自動車会社」をとびだしてしまった。彼の車が、いっこうに一般の人びとの関心をひかなかったからだ。彼は宣伝の必要性をいたいほど思い知らされた。そして、おもいきった手をうつことにした。38歳という「高齢」にもかかわらず、なんとモーター・レーシングにのりだすことにしたのである。ヘンリー・フォード(Henry Ford)は勇気もあれば、それだけの能力ももちあわせていた。ヘンリー・フォード(Henry Ford)のつくりあげたレーシングカーは、巨大な排気量の2気筒エンジンつきで、1901年10月10日、デトロイトのダートコースでの初レースにのぞんだ。これはたいしたレースとはいえなかった。なにしろ、相手はウィントンという自動車製造業者だけだったからだ。レースのはじめウィントンがりードしたが、やがてフォードが追いついてぬきさり優勝した。いっぽう、その年の7月には、フォード配下の技師のひとり、オリバー・バーセルがこの車に乗り、デトロイトの郊外ですばらしいスピードをマークしていた。彼の主張によれば116km/h、これは当時の公式のスピード記録である、"ジャメコンタント号″(ドライバー、カミーュジェナッツイ)の105.88km/hをやぶるものであった。公式の計測員がいなかったため公認されはしなかったが、これによってフォード車は、いちやくその将来性を注目されるようになっていた。ひきつづきヘンリー・フォードは友人であり、プロの自転車レーサーだったトムクーバーとともに、2台の新しいレーシングカーを製作した。"999号″と"アロー号″である。最初は2台とも計画どおりに走らなかったが、さらに手をくわえたのち、ヘンリー・フォード(Henry Ford)とトム・クーバーは、もうひとりの自転車レーサーを仲間にひきいれた。それまでいちども車を運転したことがなかったのだが、やがてアメリカの伝説的な名レーサーになった男である。彼の名は、バーニー・オールドフィールド(Barney Oldfield)。それはともかく、これらの車はまことにものすごいので,つぎのように描写されている。…「巨大な、グリースをまきちらすエンジンの後部には230ポンド(約104kg)のフライホイールがあり、ドライブシャフトに木のかたまりでできたクラッチで連結されていた。このシャフトの後端にはディファレンシャルなどはなく、ただ大時代のクラウンホイールとピニオンがついていて後輪を駆動していた。その部分の潤滑を磨く材料によっておこなわれていた。この駆動系統にはどこにもユニバーサルジョイントはなく、すべては木製のフレームにボルトじめされていた。さらにおもしろいことに、リヤサスペンションなどはなかった。ドライバーの足はむきだしでフライホイールからわずか数インチしかはなれておらず、まことに危険きわまりなかった。バーニー・オールドフィールド(Barney Oldfield)が,最初からあれほどにも速く走ることができたのは、彼がその車のもつ危険性をあまりよく知らなかったため、なんの心配もしないですんだからだろう。
日本メール・オーダー発行 世界自動車大百科(1982)より
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