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1903年(6月15日)フォード・モータ・カンパニー創立 |
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1903年6月15日、「フォード・モーター・カンパニー」(フォード社)が創立された。だが、その株主たちはさまざまな思惑をもって同社にかかわっていた。すくなくとも、ヘンリー・フォード(Henry
Ford)と一心同体といえる人物はいなかった。このことがやがてヘンリー・フォード(Henry Ford)をして、最初の支援者たちの株をすべて売却させるようにさせた大きな原因である。最初の支援者たちのうち、もっとも発言権のあったのは、アレクサンダーY.マルコムソンだった。そして彼の配下のジェームズガズンズが会社の運営にあたり、ヘンリー・フォード(Henry
Ford)は、設計者兼主任技師をつとめた。車の製作にあたっては、部品を外部から購入する方針が決定された。ここにかのダッジ兄弟が登場してくる。彼らは当時、「ダッジブラザーズ社」を設立したばかりであり、「オールズモビル社」のためのこまかい部品をつくっていた。だがヘンリー・フォード(Henry
Ford)からシャシー生産の依頼をうけるや、すぐにそれに専念することにしたのである。これはダッジ兄弟にとっても賢明な選択であった。フォ一ドのシャシー生産によって兄弟は数年後に、「ダッジ・モーター社」を設立できるほどの利益をあげたからである。ところで、フォード社は、わずか2万8000ドルの現金をもとにして設立された。そして1か月後には、銀行の残高は223ドル65セントになってしまっていた。しかし事態はすぐに好転レた。1か月後に売り出されたフォード社初の車、"モデルA"(定価850ドル)がかなりの成功をおさめたからである。いくら売れたかの記録はのこっていないが、1年以内に、取締役たちは、配当として10万ドル近くを株主に分配している。このようなつつましい出発から、同社は今日の巨大企業に成長したのだ!最初のモデルA(のちにも同名の車がある)は、20世紀初頭の他の車とおなじく、ごく単純なデザインだった。2気筒水冷エンジンがつけられ、出力は8馬力、その最高速度は50km/h前後だった。まだサーモスタットのないころだったため、モデルAは最高速度に近く走らせると冷却水が沸騰したといわれている。あるいは、そのほうがよかったかもしれない。それというのも、そのブレーキはあまりききが良くなかったからである。それはまた点火レバーをフルに「遅延」のほうにひいておかないと、スターティングハンドルが逆回転する(いわゆる「ケッチンをくう」)という悪いくせもあった。ヘンリー・フォード(Henry
Ford)は、あらゆる方法をつくして車の改良につとめ、工場にもみずからでかけていき、激励したりアドバイスをあたえたりした。だが、H.フォードにひきいられた技術薩と、マルコムソンにひきいられる経営陣とのあいだには、たえず意見の相違が生じていた。フォードは、富豪、特権階級のみが所有しえた当時の自動車を、大衆の誰もがもてる実用品の地位にまでひきさげることをめざしていた。そして彼は、この目的のために,製作がかんたんで、値段も安く、大量に販売できる、単純な構造の車の必要を見ぬいていた。だが、同社の経営陣の考えはちがっていた。彼らは自動車を、商品としてしかみようとはしなかったのである。彼らは、1台あたりの利益が大きければ、1日あたりの利益もそれだけ大きいと主張し、ヘンリー・フォード(Henry
Ford)に、より大型の車の設計を命じた。"モデルB"がそれである。予定価格は2000ドルこれは当時としては大金であった。ヘンリー・フォード(Henry
Ford)は、不本意ながらもモデルBの製作に着手しはじめた。有名な「セルデン特許事件」がもちあがったのは、ちようどそのころのことであった。ジョージB、セルデンは発明の才にたけた特許弁理士だった。そして1879年にプレイトン型の2ストロークガスエンジン搭載のキャリッジの特許を出願した。エンジンは彼がつくったものだが、それを搭載したキャリッジは紙上のものでしかなかった。資金をだしてくれる者がいなかったためにつくれなかったせいもあるが、そもそも実用化しにくいしろものだったのである。だが、1896年に彼のアイデアは、「路上機械(ロードマシーン)」として特許をえるにいたった(特許ナンバー549160)。やがて彼は、これの製造権を、特許料を支払うことを条件に、W.C.ホイットニー売却する事に成功した。これだけなら、なんの問題もなかった。問題は、セルデンが彼の自作のエンジンだけでなく、内燃機関全体の原理について特許を取得していたことにあった。このために、すべての自動車製造会社が特許料を支払わなければならないはめになったのである。これは自動車工業にとってゆゆしき問題だったにもかかわらず大半のメーカーは、法廷であらそうよりは特許料を支払ったほうが得策だと判断した。そして「特許自動車製造業者組合(ALAM)」が結成され、アメリカ合衆国内で販売されるすべての車1台につき、販売価格の1.25%を徴収するにいたった。大半のメーカーは、みずからすすんでセルデンの要求に屈したのである。だがしかし、H.フォードは大勢にさからって特許料の支払いを断固として拒否した。彼はいった。「センデルよ!そんなに大事なら特許をかかえて地獄にいくがよい」。…かくしてセルデンは、フォード社を特許権侵害のかどでうったえた。1909年、裁判所は「セルデンが正しく、フォード社がまちがっている」と裁定、だが、フォード社は即時上告し、同時にALAMによるセルデン支持のキャンペーンに反対の宣伝活動を開始した。そして1911年、ついにフォード社は勝訴した。フォード社(他の大半のメーカーもそうだったが)は、オットー式(つまりドイツ式)の原理にもとづいたエンジンを使用しているから、という理由によるものであった。この間に発表された"モデルB"は比較的平凡な車であり、大衆のことをいつも念頭においていたH.フォードは、人びとの心になにか記憶さるべきことをくわだてようとしていた。初期のスピード記録挑戦のことをおもいだした彼は、古いアロー号を復活させ、地上速度記録を黄薪して、フランスからその栄冠をうばおうとした。このためには,かなりの距離の直線路が必要だった。なぜなら、アロー号はコーナリングが苦手だったからである。そこで彼は冬までまち、凍結したセントクレア湖で記録挑戦をおこなった。そして目標の時速100マイル(161km/h)のスピードを「マークした」。だが、かつての1号車のときと同様、公式計時貝はいなかった。自動車の歴史の初期のパイオニアたちは,おしなべて極度の勇敢さをもちあわせていた。このH.フォードの記録挑戦にしても、たいへんなものといわなくてはなるまい。第一、その情景を想像してみるがよい。…舞台は雪をかきわけてっくった1本の氷の道である。1マイルの計時区間の前に、2マイルの肋走路がある。氷は凹凸が多かったため、H.フォードは忠実な部下のスパイダーハフを助手席にのせ、スロットルの操作をおこなわせた。当時の写真を見ると、オーバーを着たハフが前輪のすぐうしろになかばひざまずき、エンジンの上部におおいかぶさっているすがたが見られる。つまり、ドライバーのH.フォードは,前方視界をほとんどさまたげられたままで走行したのだ。しかも車は、左右にすべり、ときとして雪の壁につっこんでは空中にとびあがった。さらに、1マイルを走りきったあとがたいへんだった。というのは、この走行コースは処女雪地帯につうじており、車は高速でテールを左右にふりながら、その上をつっ走り、氷でうごけなくなった1隻の帆船に向かって突進したからである。ようやく車は帆船の手前でとまったものの,ひどい寒さのために車にしがみついたままうごけなくなったハフを,手をかしておろしてやらなくてはならなかった。モデルBにつづいてまもなく"モデルK"が発表された。この車についてヘンリー・フォード(Henry
Ford)はこういったとつたえられる。…「私には牛の乳首よりスパークプラグの多い車などに用はない」。1906年、ヘンリー・フォード(Henry
Ford)はフォード社の社長に就任した。このころフォード社は1日に6台のモデルKを生産し、順調に利益をあげていた。しかしヘンリー・フォード(Henry
Ford)は満足しある。そんなときだった。ウィリアムクラボーデュラントと出あったのは。当時すでに「ビュィック社」の実権をにぎっていたデュラントもまた、ヘンリー・フォード(Henry
Ford)と同様、将来は一般大衆のための車が必要であるとの信念をいだいていた。同僚の理解のなさに失望していたH.フォードは、デュラントとすっかり意気投合した。やがて、デュラントは、彼の信念を実現するべく、「ゼネラルモータ-ズ(GM)」創業への布石をつぎつぎとうっていった。そしてその一環として、H.フォードにも仲間入りをよぴかけた。ヘンリー・フォード(Henry
Ford)は、ニューヨークにでかけていつて交渉をおこない、800万ドルでフォード社を売却することに同意した。だが、デュラントのスポンサーたちの横やりがはいり、けっきよくこの話は、お流れとなってしまった。「フォード社ごときに800万ドルも……」というのが、スポンサーたちの言い分だった。もしこの話がまとまっていれば、その後のアメリカ自動車業界の勢力分布は一変していたにちがいない。 |
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日本メール・オーダー発行 世界自動車大百科(1982)より |
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