|
||||||||
1945年ヘンリーフォードU世社長に就任 | ||||||||
|
||||||||
1941年になると、事態は深刻となった。ヘンリーフォードは卒中にかかり、それが2回くりかえされた。 彼の息子のエドセルも、ほとんど政策決定にはあずかれないため、同社社長の地位に嫌気がさしていた。 そして、2年後にエドセルは死んだ。戦争はその絶頂にたっし、Hフォードは、またフォード社の社長にかえりざいた。 数ケ月後にエドセルの息子ヘンリーの孫、ヘンリーフォ一ドU世が、海軍から除隊し、一家の仕事に従事することになった。 大戦中、フォード社は爆撃機の生産を含む多くの事業をてがけた。 だが経営状態はいぜん好転しなかった。そして、1945年9月21日、Hフォードは社長の座をしりぞき、ヘンリーフォードU世が 社長に就任した。ときに彼は28歳、祖父が事業を開始したときより1歳年長というわけである。 ヘンリーフォードU世は、多くの難問にかかわってはいられなかった。……なにしろ同社は、1ケ月に1000万ドルずつの損失を 記録していたからである。 ヘンリーU世の目標は単純なものだった。従業員の士気を向上させ、フォード社に昔日の競争カをとりもどすことである。 このため、彼は祖父の若いころとおなじ行動力と熱意をしめした。ただこんどのばあいは、企業の能率向上にそのほこ先がむけられた。 大戦後のフォード車は、戦前の1940年代につくられていたモデルとほぼ同様のものだった。エドセルのつくった最後の大型車である1940年のリンカーンコンチネンタルマークIの生産もおこなわれた。ただし、1948年の大衆の要求にこたえるために、マイナーチェンジがおこなわれての上のことである。同車は、ニューョークの近代美術館が、「すぐれた美術作品」としてえらんだ8台の車のうちにえらばれており、クラシックカーといってもよい性格をもっていた。 しかし、その年にスタイルチェンジをうけると、大衆にはあまりうけなかった。なめらかなウィングの形状が、重苦しい装飾過剰のクロムメッキつきのものにあらためられたからだ。 もっとも、これは1950年代初期のアメリカ車に共通のデザイン上の特徴だった。 同社の活動の背後には、1936年にヘンリーT世とエドセルの設立した「フォード財団」があった。これはそもそも、ディアボーンの周辺地域の慈善団体であったが、1950年にヘンリーU 世はこのフォード財団を国際的組織にした。その資金は、各種有価証券に投下した資本からえられていた。これは世界最大の博愛主義的な組織となり、人類の福祉の向上のための、 よりはば広い目標をもつことになった。そして、よりよい教育を促進し、社会間題の解決のほか、美術の発展にもあたり、1960年代後半には、フォード財団はアメリカ合衆国の5600をこえる施設に30億ドル以上の金額を支出している。今日のフォード財団は、ヘンリーU世の支援のもとに、教育や一般研究、国内・国際問題に関する計画を推進している。 ところで、戦後フォード社の最初のニューモデルは、1949年型だった。これには、はじめてヘンリーU世の影響がしめされている。これは、新しいスタイルを創出するために、スタイリストのジョージウォーカーをまねいた結果である。現時点で見れば、せまいサイドウィンドウに、かさばったボディをもっていて、あまり美しいとはいえないが当時はおおいに人気を博し、ディーラーはあらそってこの車をほしがった。フォード社は、ようやくたちなおりのきざしを見せた。朝鮮戦争が開始されようとしていたが、それはアメリカの大衆とは無関係のものであり、購買層にはたいして影響をおよぼさなかった。 32歳という若さにもかかわらず、ヘンリーU世はオルガナイザーとしての傑出した手腕を発揮した。彼はオートメーションにも強い関心をいだいた。1951年には”ヴィクトリアハードトップ”がデビューし、リーカーンはカスタム用のカプリというモデルを発表した。 他方、ヘンリーフォードT世が初期においてセルデン特許事件をかかえていたように、ヘンリーフォードU世もファーガソンの特許をめぐるごたごたになやまされていた。1930年代の後半、フォード社はアイルランドの発明家、ハリーファーガソンのアイデアをフォードトラクターに使用しており、フォードファーガソンを生産販売する件に関して、紳士協定がむすばれていた。 だが1947年に、フォード社によって、トラクターの販売をおこなう「ディアボーンモーターズ」という名の新会社が創立された時点で、ファーガソンはフォード社を相手に、自分の特許を侵害したかどで訴訟をおこしたのである。そして長い裁判ののちディアボーンモーターズは、和解金として900万ドル以上を支払わなくてはならなくなった。そのときフオード社は、ディアボーンモーターズを完全に買収しており、このため支払いの責任をもおわなくてはならなかった。 フォード傘下の各会社は、戦後にその業績をのばし、つぎつぎとニューモデルを発表した。「イギリスフォード社」では、広い用途をもつ1172ccエンジンつきの"プリフェクト"と"アングリア″を発表。このエンジンは手をくわえてレースやラリーに多く使用され1950年代初期のイギリス・モータースポーツの発展に大きく貢献した。 「フランスフォード社」ではヴァンドームを発表、1949年のアメリカフォードによく似たスタイルの車である。 これは、より大衆版のヴデットよりもデラックスな内容で、95馬力の4LV8エンジンを搭載していた。 このころ、モーターショウにしだい「ドリームカー」がすがたを見せはじめ、フォード社も1954年に、FXアトモスとリンカーンモンテレイXK800を発表した。 この年はまだ、合併の年でもあった。「ナッシュケルヴィネーター社」と「ハドソン社」が合併して「アメリカンモーターズ」を形成、「スチュードベーカー社」と「パッカード社」スチュードベーカーパッカード社」となった。 |
||||||||
|
||||||||
日本メール・オーダー発行 世界自動車大百科(1982)より | ||||||||
このページのトップへ戻る | ||||||||
Copyright (C) 1999-2011 yaomasu |