1955年にフォードとシヴォレーは販売面でしのぎをけずりあい、ともに150万台に近い車をつくった。また、アメリカではすべての車がよく売れていた。ラップアラウンドウィンドシールドが採用され、チュープレスタイアも標準装備となり、ボディの色についていえば、フォ-ド車は、いまや「黒以外ならどんな色でも」えらぶことができた。スポーツカー、サンダーバードが登場したのは、この1955年のことである。これは、ヘンリーU世の指示でおこなわれた市場調査の結果うまれたもので、シヴォレーが53年に発表していた”コルヴェット”の対抗車であった。当時、アメリカには、ヨーロッパ、ことにイギリスのスポーツカーが浸透しはじめていた。シヴォレー、フォードとも、こうした動きを敏感にとらえ、アメリカ人の顧客にアピールするスポーツカーの生産にのりだしたわけだ。つまり、いずれもより豪華な内装をもち、V8エンジンのスムーズなパワーを利用していた。サンダーバードは本格的なスポーツカー好きがのぞむ以上の快適な乗り心地をしめし、自動ミッション、パワーウィンドウ、スライディングシート、パワーステアリング、パワーブレーキをそなえていた。もっとも、当時のアメリカ車に見られるけばけばしいクロムメッキの装飾はほとんどなかった。4.2LのマーキュリーV8エンジンを搭載し、圧縮比8:1で出力は160馬力だった。のちに4.7L工ンジンもっけられるようになり、性能はいっそう向上した。そしてサンダーバードは、大量に売れた。車の市場は変化を見せており、ヘンリーU世はきわめて多種多様な顧客がいることを理解していた。つまり、もっとも安くて信頼のおける車をほしがる人も、最上のものを欲する人間もいるわけだ。だが彼は、フォードの伝統にしたがった。フォードが力をいれる必要があるのは、その中間層であるとの方針をうちだしたのである。その結果、”フォードフェァレーン”が誕生した。これとは別に、やがて莫大な損失をまねくことになる他の計画も進行中だった。すなわち、不運ないフォードエドセルの開発もすすめられていたのである。その間ヨーロッパでは、自動車ブームの時期が到来していた。ヨーロッパにおけるフォードの生産(イギリス、フランス、ドイツに集中していた)も、それなりに順調なのびをしめした。フオードのイギリスとのむすびつきは、1904にさかのぼる。この年パーシバルペリーが、フォード車をヨーロッパ各国で販売するフランチャイズをえたのである。アメリカフォードが60%の株式をにぎって、「イギリスフォード社」が創立され、ペリーとその協同経営者が40%を取得した。フランチャイズ権をもっていたため、同社は、イタリア、デンマーク、スペイン、オランダなどのフォード販売会社の持株会社となっていた。戦後、イギリスフォード社は外国の子会社を買収し、「フォードョーロッパ社」を形成した。だが、傘下の「フォードフランス社」が最大の弱点だった。そのため、アメリカから経営陣をおくりこんで、同社にてこいれすることにした。えらばれたのは、ジャックレイスである。1953年には、彼は利益をだすまでに回復させた。その間、「シムカ社」との交渉が開始され、”ヴデット”を共同で生産することになり、この結果シムカ社は、その15%の株式をえたうえで、フォードフランス社の工場を手中におおさめた。ついで、シムカヴデットを販売するために、フォード社はあらたに「フォードフランス社」を設立した。後年「クライスラー社」が、このシムカ=フォード連合にわりこみ、シムカ社はクライスラー社の子会社となるが、ともあれ、こうしてフォード社はフランスに販売会社をもつことになり、イギリスとドイツからフォード車を輸入する組織を所有することになった。1955年に、「ドイツフォード社」は、ニューモデル、”フォードタウナス15M”を発表した1498CC4気筒OHVエンジン搭載のこの車は、ドイツの市場だけでなく、全ヨーロッパに人気をえるようになった。イギリスでは、4気筒の”コンサル”と6気筒の”ゼファー”が発表された。このころのアメリカ車のスタイリングは、きわめてはでなものとなっていた。テールフィンが流行し、それも極端な形になっていた。フォードも例外ではなく、1957年型の”フエアレーンハードトップコンバーチブル”など、今日、そのすがたを後方から見ると、いったいどこに魅力があるのかと不思議におもえるほどである。この時期における市場の成長はめざましいものがあったが、その方向はあやまっていたといわれる。産業心理学者は、「大きなテールフィンは、男らしさとスピードを強調するものだ」といっていたが、それはおおいにまちがっていたにちがいない。そして、このことは、1957年に発表されたエドセルについても同様だった。
|