残念なことにエドセルは少しも人気を集めなかった。それはちょうど経済の退潮期に発表されたし、これまでの研究によれば、その市場調査の方法もあやまっていた。大衆はこの種の車をのぞんではいなかったのである。エドセルの失敗にどのくらいの損失があったのか、フォード社はまったく口をとざしているが、それはひかえめにみつもっても2億ドルをくだるまいとみなされている。事態は深刻だった。フォード社は、1956年以来株式を公開しており、フォード財団は1000万ドル相当分の株式を放出せざるをえなかった。同時にフォルクスワーゲンを先頭に、ヨーロッパの小型車がアメリカ市場での足場をかためだし、フォードはその影響をもろにうけた。
だが、フォード社はただちにまきかえしに転じた。当時フォード社は、フォードの乗用車とトラックを生産販売するフォード部門と、マーキュリー、エドセル、リンカーンを生産販売するMEL部門とからなっていた。エドセルの失敗は、とりわけ、MEL部門に大きなダメージをあたえた、フォード社がまきかえしに転じるにあたって主役を演じたのがフォード部門であったことは、いうまでもない。フォード部門では、エドセルの失敗を横目に見やりながら、着実に各種のアイデアの実験がおこなわれていた。1957年には、一体構造の軍用車がガスターピントラックとともに発表された。1958年には、ホパークラフトとおなじ原理により、うすいエアクッションの上を走るグライドカーの模型が発表された。もっとも、フォード社のまきかえしを可能にしたのは、これらのアイデアではなかった。それは、1959年発表の”コンパクトカー“、”ファルコン”であった。ファルコンは大成功をおさめ、市場はできのよい燃料経済車を要求していたのだ。その背後には,1956年のスエズ危機にともなう石油不足があった。ファルコンがデビューした1959年、エドセルの生産は中止された(以降、MEL部門はリンカーン マーキュリー部門となる)。この年は,イギリスフォード車にとっても重要な年だった。新しいアングリアがデビューしたからである。リヤウィンドウが逆傾斜したユニークなスタイルで、外見的にも注目すべきこの事の駆動系統には、2つの重要な変化がくわえられていた。これはイギリスフォードとして、はじめての4速ギアボックスをもったモデルであり、エンジンも新設計のものだった。超ショート ストロークの4気筒OHV、997ccエンジンである。新アジグリアは、おなじ年に発表された、技術的にユニ−クな“BMCミニルのかげにかくれて、さほどの脚光はあびなかったが,堅実な成功をおさめ、ヨーロッパにおけるフォードの成功のきっかけをつくった。これはやがて”コルチナ”に道をゆずることになる。スポーツエンスージアストにとって、アングリアのエンジンは、まことに興味ぶかいものだった。ショートストロークのために改装が容易で,ほどなくしてアングリアエンジンは、フォーミュラ3(F3)用のエンジンのベースとなった。そして子れの発展型である1200ccのコルチナエンジンは、のちにF1レースを席巻(せっけん)することになる、コスワース フォードDFV V8エンジンのベースとなった。DFVエンジンはまず、1500ccのフォードコルチナエンジンからはじまる。これは5個のメインベアリングをもち、ウェーバーのキヤプレターをつけたきわめて高性能なエンジンで,値段も手ごろだった。イギリスフォード社は1963年に2台の車をアメリカにおくっそマールポロでレースをおこなわせたが、そのときのドライバーのひとりが、若き日のジャッキー スチュアートであった。同時に、コルチナのエンジンブロックにDOHCヘッドをのせた”ロータス コルチナクも発表され、この事はレースでもラリーでも大成功をおさめた。これこそ、最近のフォード社のモータースポーツでの成功の基礎をつくったものである。
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